老子と生涯学習と多様性

為政者が「賢者を登用する」と言い出さなければ、我も我もと民が争うことがない。手に入れがたいお金や宝物などを尊ばなければ、それ見当てに民が盗みを働くことがない。そもそも欲しくなるようなものを見なければ、心を乱すことがない。

この道理だからこそ、万能の人の政治は、民の欲を空っぽにする代わりに、腹一杯喰わせてやる。何かしたがる欲求を弱める代わりに、体を丈夫にしてやる。いつも民が、余計な事を知らないよう、欲を起こさないようにする。そもそも余計な事を知っている知識人には、余計な事をさせないようにするのだ。余計な事をしなければ、世が治まらないわけがない。

https://rousi.kyukyodo.work/honbun/03.html

老子にはまっている。人為を廃し無為自然を体現することで、思い悩むことなく自由に生きられるという思想のようなもの。例えば↑の例を解釈すると、そもそもいろんなことを知ることによって欲が生まれ争いが起こる。お金や宝なんてものの存在を知らなければ民は欲深くなることもなく、自然のままに素朴に生きることができる。みたいな。

勉強し、いろいろなことを知りできることが増える。できることが増えることで世間に何かを還元し、その対価としてお金を得る。お金を得たことで家を建てたり、良いものを食べたり、きらびやかな衣服をまとい、子に良質な教育を施し。その営みの末に格差が生まれ、格差を感じた人々が幸福を感じたり不幸を感じたりする。この「格差」というのは人類が今の感じになった40万年前からすると、まだ遭遇して間もない状態、貨幣が生まれ、財産の概念が生まれた、せいぜい数千年前の話で、このような状況に脳がちゃんと進化しきっていない状態だと思われる。

加えて現代になってSNSが爆誕し、人類は有史以来最大量の他人と幸福を比べたがる状況におかれているわけ。このような状況にさらされた脳がどのような挙動を取るかは、まだ誰にもわかっていない状態に思える。

そんな中、ワンポチで本が買えるAmazonやら、遠隔であろうとその場で簡単に学習できる通信教育、あやしい情報商材、AIによる知識の共有・壁打ち、YouTubeによる学習講座など、もう知識を得ようとしたら質はおいといて無限に得られるような状況に突入し、ますます知識の拡大に加速が生まれ、これが例えば自分ひとりだけそのような状況にあればこれほど有利な状況はないが、大多数の人々が同じ状況を享受できるわけで、故にこれまた有史以来最大量の競争がここに生まれており、もうほんと、いくら学習してもしてもキリがない状況に思える。

で。もちろん儒教的な思想がインストールされているだいたいの日本人において、死ぬまで勉強することはとても美徳とされていて、もちろん僕もその教義に大賛成であり、それが美徳の社会においてはそれに従っていれば利益があるので、死ぬまで勉強を標榜し、Xなどでそのような発信を続けている。

でも一度立ち止まりたい。そもそも知識を獲得するのは幸せな老後だったり自己実現だったり、自分が幸せを感じるための先行投資だったはずで。それなのに、知を得れば得るほどむしろ戦いは激化し、世はまさに、知の春秋戦国時代。我々ソフトウェア開発者の中でも、ちょっと考えの浅い思想なりを披露しようものなら一斉に大勢の他人から叩かれ、炎上し、人格を否定され。それで萎縮したり、エンジニアを辞めてしまう人が出たり、エンジニアってマジでとっつきにくいよね? などとPMやセールスなどから煙たがられる、みたいなことがあったりする。

で、老子の言うように、せーの! で全員が知識を収集することを辞め、自然のまま、狩猟採集をやりながら生きれば、もしかしたら今SNSで思い悩むような謎の圧迫はなくなると思われる。自殺者は減る。きっと狩猟採集に向かない僕は死ぬが、一定数の人間は今よりも幸福に生きられるかもしれない。反証はいくらでもあるのだけど、多すぎる情報が人を不幸にするってのは自分の身体感覚としても理解できる。デジタルデトックスとか言うでしょ? ミニマリズムとか言うでしょ?

Dr.STONEで司が言っていた「科学のないこのストーンワールドを維持すれば、人々は権力にとらわれることもなく、素朴に幸福に生きられる」と言っていたような世界。我々科学信奉で儒教信奉の民からすると、「司、何言っとんねんめっちゃ幼稚」って一笑に付すお話ではあるが、たぶん我々1日中スマホで猫とかエロい女のショート動画とか芸能人や政治家のSNSとかのつぶやきを見て揚げ足取りに勤しんでいるバカの民の数倍物事を考えている大昔の中国の思想家たちが考えていたことが、現代にまで伝わり、そのアナロジーがDr.STONEに大真面目に使われていることの意味をもう一度考えた方が良い。

自分が思い込んでいる常識とは真逆の思想があることを認識し、それを理解することで、初めて多様性なりが理解できるのではなかろうか。どちらが良いとか悪いとかではなく。ただ単に多様な思想に触れ、それを盲信するでもなく、ただ理解する。

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